1565年創建。450年を超える歴史。
開基の祖先は足利尊氏であると伝えられています。尊氏の子孫である、足利義氏から古河豊前守義勝(こがぶぜんのかみよしかつ)までが安濃郡安濃村(現在の正覚寺近辺の地)を統治していました。
1565(永禄8)年、織田氏との合戦が勃発し、義勝は敗れ死亡。家臣30~40名と義勝の長男である幸丸(ゆきまる)が残されました。家臣らの相談により、幸丸は出家することに。その出家にあわせて正覚寺の前身となる「正覚庵」が建てられました。
出家した幸丸は、名を教圓房幸然(きょうえんぼうこうねん)と改めます。幸然は、父・義勝の最期の地に「古河山正覚寺(こがわさんしょうがくじ)」を建立。山号を古河とした背景には、義勝の祖先が古河公方(こがくぼう)であったが故であると伝えられています。当時の人々はそのことを知り、その地域一体を「古河(ふるかわ)」と呼ぶようになり、現在もその呼び名は残っています。
藤堂家ゆかりのお寺
江戸時代になると、藤堂家が伊賀・安濃津の藩主となりました。二代目藩主であった藤堂高次の息女、お石(おいし)が病死します。その葬儀を正覚寺第三世住職が勤修するご縁を賜りました。葬儀の後、お石のお墓が正覚寺境内に建てられ、藤堂家邸宅の赤門が寄進されます。この赤門から、「赤門寺(あかもんでら)」「赤門さん」と呼ばれるようになりました。
時代は進み、1945(昭和20)年7月。空襲により津市街はほぼ全壊。正覚寺も全焼しました。建物は全焼しましたが、空襲の中、第十七世坊守と第十八世住職によって過去帖とご本尊の阿弥陀如来像が搬出され、それらは現在も守られています。
空襲から守り抜かれた阿弥陀如来像(H27年に修復・洗濯済)
墓地の整備
全焼した正覚寺は門信徒のお力により、1954(昭和29)年に仮本堂を構え、1957(昭和32)年には再建することができました。またこの時、津市の復興計画工事によって境内は縮小し、境内墓地は「偕楽公園墓地」と「青谷墓地」へと移設されることになります。
平成に入り、沢山の先人方のご尽力によって脈々と受け継がれてきた正覚寺を更に次の世代へと、「偕楽公園墓地」と「青谷墓地」の整備、合同墓の設置をいたしました。また2015(平成27)年には、本堂の屋根瓦の葺き替え、耐震補強、阿弥陀如来像の補修を完了しています。
地域に開かれたお寺へ
現在の正覚寺は、古来より行われている永代経法要や報恩講法要などの各種法要、戦前から続く仏さまのお話を聞く「紫雲会(しうんかい)」(常例法座)を行っています。また近年では、習字教室、茶道教室、ヨガ、子ども会(お寺であそぼっ!)など、宗旨宗派を問わず地域の方々の拠り所となれるよう、様々に活動を展開しています。
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