正覚寺公式HPをご覧くださり、ありがとうございます。正覚寺は戦国時代に創建した、本願寺(西本願寺)を本山とする浄土真宗本願寺派のお寺です。

お寺やご法事について「よくわからない」ということは多いと思います。「わからないことがわからない」ということもあるでしょう。良くも悪くも「よくわからない」お寺のことを「プロとしてきちんとお答えしていきたい。」そうした思いからこのHPを開設いたしました。

ご覧くださいました皆様のお力に少しでもなれますと幸いです。

お寺の人

副住職 正親一宣(第22世)
浄土真宗本願寺派布教使

経歴

2009年三重県立津西高等学校      卒業
2013年龍谷大学文学部真宗学科   卒業
2016年龍谷大学大学院実践真宗学研究科 修士課程 修了

仏教について


「仏教」と聞くとどのようなイメージをお持ちでしょうか?

「堅苦しい」
「死んだ人の為にお経を読むだけ」
「日常生活とかけ離れたもの」
「おとぎ話の世界」

それぞれに様々なイメージをお持ちのことかと思いますが、果たして仏教とはどのようなものなのでしょう。

今から約2500年前、この世(今のインド)にお釈迦さまが一人の人間としてお生まれになりました。私たちと同じように人生における様々な苦しみを抱えられたお釈迦さまは、その苦しみから目を逸らさず、その原因を明らかにし、苦しみを乗り越えられました。苦しみを乗り越えられたお釈迦さまは、自分以外の悩み苦しむ人々にその教えを説かれます。その教えが仏教です。仏教はその時以来2500年の時間を超え、また国境を超えて今の私たちまで脈々と受け継がれています。

仏教は、「今を生きている私たちの為に説かれた教え」です。
私たちはどれだけ年を重ねているお方であっても、どれだけ若いお方であっても、誰しもが悩みを抱えています。そのような悩みをどのように捉えると乗り越えていけるのか、幸せに生きていけるのかが仏教には説かれています。

現代では「葬式仏教」と揶揄されることもしばしばあります。「葬式仏教」と呼ばれるようになった一つの理由は、私ども僧侶の怠慢です。大切な方との別れの場であるお葬式で、その悲しみに寄り添うこともできず、儀礼の執行者にしかなれませんでした(それさえも十分ではないという批判さえあります)。お葬式も別れを通してその苦悩を越える仏教が伝わる場となるよう、精一杯にお勤めさせていただきます。ただ、「仏教はお葬式の時だけ」というのはあまりにも寂しく思います。仏教本来の役割が「今、悩み苦しむ方の支えとなること」であるならば、葬儀の場だけではなく、私たちの日常に最も身近であらねばならないものです。

仏教と普段関わることなく生活をなされている方々も多いことでしょう。ですが私は「今を生きる私たちの為に説かれた教え」である仏教を聞くことができて嬉しく思っています。仏教が悩みを抱えて生きる私の支えになっています。皆様と一緒に仏教を聞き、仏教に出会えた喜びをお伝えしていくという役割を全うしていきます。

お寺のあり方


「お寺」と聞いてどのようなことをイメージしますか?
先にも書いた通り「葬式仏教」と呼ばれることもある現代では、お葬儀やご法事などの仏事を行う場所というイメージを抱く方が大半ではないでしょうか。もしくは、「何も思わないし、わからない」という方もいらっしゃるかもしれません。

歴史を振り返りますと、お寺は地域の中心でした。役所や学校、集会所、時には病院など多様な役割を担っていたこともあります。ですが、時代の変化に伴い、それらは他の機関が担うようになりました。役割が減った結果、多くの方が仏事の時にしかお寺との接点がないというのが現状でしょう。

今から20年以上前、オウム真理教の方々が大きな事件を起こして社会問題になりました。その時に取り上げられた言葉があります。
「日本の寺は風景でしかなかった」
もの凄く突き刺さりました。満足のいく日常を過ごすことができず、人生に行き詰まりを感じ、何かに助けを求めたかったその時、「町のお寺に行こう」という選択肢は全くなかったそうです。あれから20数年経った今でも、この問題は私たちの大きな課題として残っています。

現代はもの凄く便利な社会となりました。しかし一方で、便利になったからこそ失われたものがあります。より生きやすい社会を目指しているにもかかわらず、生きづらくなっている部分があります。

お寺は本来、その生きづらさの支えとなっていく使命があると考えています。お寺には脈々と受け継がれる仏さまの教えがあります。先に記した通り、仏教は「今を生きている私たちの為に説かれた教え」です。悩み苦しむ方の支えとなるのが仏教です。何かあった時に「お寺に行こう」と思っていただける状態が、私たちのあるべき姿でしょう。

勿論、たった30年しか生きていない私に、お一人お一人が抱える悩みを解決する力があるとは思っていません。ですが、一緒に悩むことはできます。一人の僧侶として、悩み苦しむ現実に一緒に向き合っていきたい。そう考えています。

そう考えた時、まずは日頃から足を運んでいただきやすいお寺、「開かれたお寺」となることの必要性を感じました。
どのような方でも気軽にお参りしていただける。子どもたちが境内に入って遊べる。そんな地域に開かれたお寺になりたいと考えています。

「風景としてのお寺」から「必要なお寺」へ。
ただの風景や文化財ではなく、地域にとって存在意味を感じていただけるお寺を目指していきます。